固定観念をすてると見えるもの ~倭の五王~

神功皇后のつづきとなります

日本が中国の宋との間に行った記録です

時代は西暦450年ごろの話です

天皇が日本人ではないことの証明でもあります

聞きなれない単語も出るので わかりやすく書いてきます

 

五王とは

讃・珍・済・興・武 という名で記されている王様のことです

一文字なんです まるで中国人です 

もしくは中国の統治下、文化圏の名前です

三国志劉備玄徳は 劉が姓で 備が名(自分がつける名) 玄徳があざ名(親がつける名です なので備にあたる部分ではないかと)

日本と中国とのやりとりは漢の時代から記録がありますが(帥升など)

一文字の王はいないです  ・・妙なんです 

 

遣宋使とは

文化的な交流ではなく 中国(宋)に対して朝鮮の支配を認めてもらう内容で

朝貢した(贈り物をおくってた)記録です

見返りに官位を求めていたようです まぁ却下されたわけですが

 

安東大将軍

認められた称号(役職)が安東大将軍です(東を安んじる将軍って意味)

実はそんなに高い地位を示す称号ではないです

本来であればその上 鎮東大将軍を求めるものだと思いますが 最初から下を求めてるんですね 

しかも征服されたわけでもないのに配下を示す 臣 を名乗るわけです

 

日出国の天子

少し時代が飛びますが聖徳太子が 隋の天子に宛てた文言に 

日出国の天子より日没する国の天子へ というのがありますが 

あくまで対等の関係を望んでいたことを示す言葉です

そして内容も学生を送ったり文化の交流が主でした

なぜ宋の時代はわざわざへりくだって 臣を名乗り 低い位の官職を求めたのか

国のスタンスとして 後の時代と辻褄が合わないんですよね 

まるで戦争して負けてる国のようです

なので五王とは 本当は王ではなかった そう思います

 

倭の五王の正体

日本書紀にはこの五王のことは書いてないのですが 中国の呉(三国志の呉)に交渉を行ったという記述があります 

応神天皇仁徳天皇雄略天皇の時に呉国と交渉をもったことが記されています

呉とは南宋ともとれます

応神天皇とは前回書いた神功皇后の子供です

応神天皇が 讃・珍・済・興・武 の内 どれに該当するのかはわかりませんが

この中のどれかであることは間違いないです

 

天皇は朝鮮からの渡来人

以前書いた神功皇后が朝鮮からやってきていたとすると 

中国の官職制度を理解し そういった称号を求めること

そして名も中国人っぽいことも説明がつきます

しかもわざわざ低い官位を求めてるあたり その辺もわきまえている

宋を呉と表記してる自体(日本と呉のやりとりはないので あの地域を呉と認識しない)

中国の地理や歴史を知る立場なんでしょう 朝鮮ならいやでも中国の影響下でしたからね 特に宋にとって百済は植民地に近いです

神功皇后が朝鮮から渡来したとすると ほとんど辻褄が合います

宋に対して求めた官職は朝鮮半島にやたらと固執したものです(特に百済固執

日本が朝鮮半島をほしがる理由もないですし、守る義理もないですからね

やはり天皇一族は朝鮮から来てますね 時代も西暦400年代前後でしょう

 

まとめ

のちに天皇を名乗る朝鮮から来た人達は

百済から九州に辿り着き 九州を支配したのでしょうね

そして倭の王を名乗って 中国の官職を求めた

何代も渡ってそれを求めたようなので よほど母国愛が強かったのか

(それなら朝鮮に帰ればいいのに)

天皇家が朝鮮に固執する理由は この時代からなんですね

大化改新で暗殺しまくって実質の王となった

そして白村江の戦い百済を救援しに向かう

負けて遷都して歴史を作り替えたんでしょうね

そして百済人同士で繁殖した結果、今もキムチが好きそうな顔をしているわけです

近代では朝鮮に固執するあまり 甲申事変からはじまり 日清戦争が起き 日韓併合 朝鮮がロシアを頼ったため日露戦争にまで発展した

その結果、有色人(日本人)が白人(ロシア人)を倒すことになってしまい 西洋に警戒され 勝ち目のない太平洋戦争に引きずり込まれた

朝鮮に固執しなければ起きなかった歴史です

・・ホント帰ればいいのに そう思います

そしてどんなに歴史を改変しても必ず歪みが生まれるということです